クラブ管理運営
統括委員長 井澤 健彦
※1 崎の字は立つ崎(たつさき)が正式です
会員増強
統括委員長 高島 和之
公共イメージ向上
統括委員長 増田 定男
奉仕プロジェクト
統括委員長 福井 順子
ロータリー財団
統括委員長 池田 龍二
戦略計画
統括委員長 佐脇 浩
1965年11月21日、中華民国台湾南投県塘里鎮、埔里RC、例会場において、市川RCとの姉妹締結が行われた。
1965年10月14日、国際ロータリー創立60周年を記念する日本ロータリーの全国大会が、東と西に分かれて開催された。
東日本は、東京代々木の国立競技場を会場として行われた。東日本連合地区大会は、北海道より静岡までの350、352、353、355、358、359の6地区 402クラブで、わが市川クラブは当時358地区に所属していた。大会の登録会員総数は8,283名を数え、台湾からの参加者も50名に及び、埔里RCの2名もこのグループの一員として参加していた。
この頃、台湾では台北西北RCが、日本の茅ヶ崎RCと第1号の姉妹締結を行い、第2号はどこのクラブになるかの関心が高まっていた。
1964年10月19日に創立され、1年目を迎えた若い埔里RCは、日本のRCとの姉妹締結に大きな期待を持ち、埔里の地理的条件や例会の木曜日開催等も考慮に入れ、東京近郊の「船橋」 と「市川」にあるクラブを候補クラブとして、意欲的に接触を図ろうとしていた。
大会2日目、午後2時開催の第2回本会議中、顔を紅潮させた埔里RCのかつて明治大学に留学経験のある黄建麟氏と楊思桐氏は、会議に参加していた市川RCグループを、広い会場の中からようやく探し当て「市川クラブの皆様ですか」と流暢な日本語で呼びかけて来た。
まさに、この一言が金蘭永盟の始まりとなった。
早速、この会場で相互の意見交換は進み、 翌 木曜日に例会をひかえていた市川RCの神納木会員が「ほなら明日例会さかい、出席されたらどないです?」と招待し、両氏もこれを快諾、ここに、埔里RC代表会員2名の市川RC初訪問が決まった。
1965年10月14日、国際ロータリー創立60周年を記念する日本ロータリーの全国大会が、東と西に分かれて開催された。
東日本は、東京代々木の国立競技場を会場として行われた。東日本連合地区大会は、北海道より静岡までの350、352、353、355、358、359の6地区 402クラブで、わが市川クラブは当時358地区に所属していた。大会の登録会員総数は8,283名を数え、台湾からの参加者も50名に及び、埔里RCの2名もこのグループの一員として参加していた。
この頃、台湾では台北西北RCが、日本の茅ヶ崎RCと第1号の姉妹締結を行い、第2号はどこのクラブになるかの関心が高まっていた。
1964年10月19日に創立され、1年目を迎えた若い埔里RCは、日本のRCとの姉妹締結に大きな期待を持ち、埔里の地理的条件や例会の木曜日開催等も考慮に入れ、東京近郊の「船橋」 と「市川」にあるクラブを候補クラブとして、意欲的に接触を図ろうとしていた。
大会2日目、午後2時開催の第2回本会議中、顔を紅潮させた埔里RCのかつて明治大学に留学経験のある黄建麟氏と楊思桐氏は、会議に参加していた市川RCグループを、広い会場の中からようやく探し当て「市川クラブの皆様ですか」と流暢な日本語で呼びかけて来た。
まさに、この一言が金蘭永盟の始まりとなった。
早速、この会場で相互の意見交換は進み、 翌 木曜日に例会をひかえていた市川RCの神納木会員が「ほなら明日例会さかい、出席されたらどないです?」と招待し、両氏もこれを快諾、ここに、埔里RC代表会員2名の市川RC初訪問が決まった。
1965年10月15日 (木曜日)、黄氏、楊氏は、当時の旧市川商工会議所3階で行われていた市川RC例会場を訪問し、会員の暖かい出迎えを受け、例会において市川RCとの姉妹締結を希望する捕里RCの熱意と実現への期待を述べた。
市川RCの出席会員は、この要請を好意と友情を以って受け留め、心温まる賛意を表明し、続いて、その夜開催された歓迎の宴席において、胸襟はより開かれ、盟約の契りは大きく前進した。
その5週間後、11月21日に埔里RCで開催されることになった姉妹締結記念式典には、市川RCを代表して、小澤幸三会長、高木勝衛幹事、 神納木与志雄会員、 平田博永会員の4名が出席することとなった。
11月21日、6時すぎ、一行は大勢の埔里RC会員が出迎える中、台中駅に到着。
3台の自動車に分乗して、50キロ余東方にある有名な日月漂に近く、台湾の中心に位置する山紫水明の街、埔里鎮に向けて出発した。埔里鎮には、1時間余で到着したが、旅装を解く間もなく、8時には30名の捕里RC全会員の待ち受ける例会場に急行した。
姉妹締結の記念行事は喜びと笑顔に満ちた、大歓迎の例会場で盛大に行われた。小澤、林両クラブ会長は敢えて、契りの書類もつくらず、堅い握手を交わし、「無約文締結」というロータリーならではのレベルの高い、相互信頼を基盤とした、 親しい両クラブの交友関係はここにスタートした。
大任を果たした一行は、その後、宿舎に当てられた銀行で興奮覚めやらぬ一夜を過し、翌日、友好親善を果たした喜びを胸に帰国の途についた。
市川RCの出席会員は、この要請を好意と友情を以って受け留め、心温まる賛意を表明し、続いて、その夜開催された歓迎の宴席において、胸襟はより開かれ、盟約の契りは大きく前進した。
その5週間後、11月21日に埔里RCで開催されることになった姉妹締結記念式典には、市川RCを代表して、小澤幸三会長、高木勝衛幹事、 神納木与志雄会員、 平田博永会員の4名が出席することとなった。
11月21日、6時すぎ、一行は大勢の埔里RC会員が出迎える中、台中駅に到着。
3台の自動車に分乗して、50キロ余東方にある有名な日月漂に近く、台湾の中心に位置する山紫水明の街、埔里鎮に向けて出発した。埔里鎮には、1時間余で到着したが、旅装を解く間もなく、8時には30名の捕里RC全会員の待ち受ける例会場に急行した。
姉妹締結の記念行事は喜びと笑顔に満ちた、大歓迎の例会場で盛大に行われた。小澤、林両クラブ会長は敢えて、契りの書類もつくらず、堅い握手を交わし、「無約文締結」というロータリーならではのレベルの高い、相互信頼を基盤とした、 親しい両クラブの交友関係はここにスタートした。
大任を果たした一行は、その後、宿舎に当てられた銀行で興奮覚めやらぬ一夜を過し、翌日、友好親善を果たした喜びを胸に帰国の途についた。
この後、5年の歳月を経て、埔里RCより姉妹締結5周年の祝賀行事を行いたい旨の招聘があり、市川RCでは、村岡元一副会長を団長とし、蓜島正次幹事、吉岡政雄国際奉仕委員長、加藤敏夫親睦委員の4名の代表で構成する2回目の訪問団を派遣することとなった。
この折、メンバーの吉岡政雄会員は、ロータリーの精神に基づいて埔里RCの奉仕活動を援助すべく、個人として毛布40枚を寄贈、大きな感謝を受けた。
吉岡会員はその後も公私を問わず、ときにはご夫妻で足繁く埔里RCを訪問し、その間、公式訪問は19回に及び、その都度、多額の金品も寄贈している。
また、この吉岡会員の訪問の中でも特筆すべきは、昭和47年、日本政府の田中内閣が北京政府と国交正常化をはかり、日中国交回復の調印を行い、周四原則によって台湾政府と国交を断絶した折、吉岡会員は政府の変節を怒り 「ロータリーは裏切らない」と、早速、入会間もない加藤和紀会員を伴い、埔里を訪問した件をあげなければならない。
このときの台北行の飛行機はまだダグラスDC-8で乗客は、当時の情勢を反映して、わずか7名だったといわれている。
埔里RCでは会員、ご夫人全員揃って吉岡会員を喜びの涙で出迎え、吉岡会員もまた涙ながらに「国の変節」を詫びた。
この折、メンバーの吉岡政雄会員は、ロータリーの精神に基づいて埔里RCの奉仕活動を援助すべく、個人として毛布40枚を寄贈、大きな感謝を受けた。
吉岡会員はその後も公私を問わず、ときにはご夫妻で足繁く埔里RCを訪問し、その間、公式訪問は19回に及び、その都度、多額の金品も寄贈している。
また、この吉岡会員の訪問の中でも特筆すべきは、昭和47年、日本政府の田中内閣が北京政府と国交正常化をはかり、日中国交回復の調印を行い、周四原則によって台湾政府と国交を断絶した折、吉岡会員は政府の変節を怒り 「ロータリーは裏切らない」と、早速、入会間もない加藤和紀会員を伴い、埔里を訪問した件をあげなければならない。
このときの台北行の飛行機はまだダグラスDC-8で乗客は、当時の情勢を反映して、わずか7名だったといわれている。
埔里RCでは会員、ご夫人全員揃って吉岡会員を喜びの涙で出迎え、吉岡会員もまた涙ながらに「国の変節」を詫びた。
1983年2月8日、吉岡会員が他界されると、埔里RCでは木曜日の例会を特別に6月24日の日曜日に振替え、故吉岡政雄氏ご夫人とご子息の政樹氏をこの例会に招き、現地佛光寺において埔里のライオンズクラブ、青年会議所、 ロータリークラブの各会員と家族多数が出席する中、追悼安霊会(葬儀)をしめやかに執り行い、位牌は末水く当佛光寺に安置されることとなった。
またこの件に関しては特別な美挙として台湾の地方紙はもとより全国紙にも掲載報道された。
埔里RCでは、この吉岡会員のロータリーの「好意と友情」に加うる「誠意と勇気」を称え、 以後、吉岡会員を“閣下”と尊称し、 扶輪 (ロータリー)大使のニックネームも贈っている。
このほか、市川、埔里両クラブの間では、役員、会員の隔年相互訪問や児童、 青少年の相互訪問も数多く行われ、友好親善の絆はより堅いものとなった。
1997年4月17日には両クラブ永年の懸案であった合同例会が台北で開催され、 第2790地区長島洋三ガバナー、市川RCからは清滝信治会長を団長に、会員26名、ご夫人ご家族14名の41名、第3450地区からは頼正成ガバナー、埔里RCからは療養中の2名の会員を除き、 温光成会長をはじめ会員とご夫人全員が参加した。
加えて市川RCでお世話した米山奨学生5名も全員参加。さらには、役所関係からも多数の来賓参加を得、合計100有余名に達する極めて盛大かつ親密度の高い、国際親善交流の機会を持つことが出来た。
またこの件に関しては特別な美挙として台湾の地方紙はもとより全国紙にも掲載報道された。
埔里RCでは、この吉岡会員のロータリーの「好意と友情」に加うる「誠意と勇気」を称え、 以後、吉岡会員を“閣下”と尊称し、 扶輪 (ロータリー)大使のニックネームも贈っている。
このほか、市川、埔里両クラブの間では、役員、会員の隔年相互訪問や児童、 青少年の相互訪問も数多く行われ、友好親善の絆はより堅いものとなった。
1997年4月17日には両クラブ永年の懸案であった合同例会が台北で開催され、 第2790地区長島洋三ガバナー、市川RCからは清滝信治会長を団長に、会員26名、ご夫人ご家族14名の41名、第3450地区からは頼正成ガバナー、埔里RCからは療養中の2名の会員を除き、 温光成会長をはじめ会員とご夫人全員が参加した。
加えて市川RCでお世話した米山奨学生5名も全員参加。さらには、役所関係からも多数の来賓参加を得、合計100有余名に達する極めて盛大かつ親密度の高い、国際親善交流の機会を持つことが出来た。
この2年後、1999年9月21日には、台湾中部域の台中、埔里鎮付近を震源とする、集集大地震が発生し、埔里鎮は、ほとんどの家屋が倒壊し、多数の死傷者を出す壊滅的な大災害に見まわれた。
市川RCはこれに対し、直ちに手配を尽くし、見舞うとともに、JR市川駅前において、市川ロータリークラブ・市川ライオンズクラブ・市川青年会議所の三団体合同により、街頭募金を行った。
市民の方々から寄せられた浄財は120万円に上り、1団体分40万円と市川ロータリークラブ会員の義損金70万円、加うるに黄建麟友愛基金より400万円も得て、見舞金は合計510万円用意された。
その後、事態の鎮静化をまって、2か月後の11月23日にはこれら見舞の金品を携え、第2790地区委員で市川ロータリークラブ社会奉仕委員長の金子晃典会員と清滝信治会員、吉岡政樹会員の3名が現地を訪問し、被害状況の視察と、心からの見舞を行い大きな感謝をもって迎えられ、厚意と友情の絆はより一層堅いものとなった。
市川RCはこれに対し、直ちに手配を尽くし、見舞うとともに、JR市川駅前において、市川ロータリークラブ・市川ライオンズクラブ・市川青年会議所の三団体合同により、街頭募金を行った。
市民の方々から寄せられた浄財は120万円に上り、1団体分40万円と市川ロータリークラブ会員の義損金70万円、加うるに黄建麟友愛基金より400万円も得て、見舞金は合計510万円用意された。
その後、事態の鎮静化をまって、2か月後の11月23日にはこれら見舞の金品を携え、第2790地区委員で市川ロータリークラブ社会奉仕委員長の金子晃典会員と清滝信治会員、吉岡政樹会員の3名が現地を訪問し、被害状況の視察と、心からの見舞を行い大きな感謝をもって迎えられ、厚意と友情の絆はより一層堅いものとなった。
2000年には、姉妹締結35周年を市川グランドホテルで開催。
2003年には、帝国ホテルにて市川ロータリークラブ創立50周年記念式典に埔里ロータリークラブより20名の参加。
2004年には、埔里ロータリークラブ創立40周年記念式典に参加。
2005年には、姉妹締結40周年記念式典に訪台しました。
2003年には、帝国ホテルにて市川ロータリークラブ創立50周年記念式典に埔里ロータリークラブより20名の参加。
2004年には、埔里ロータリークラブ創立40周年記念式典に参加。
2005年には、姉妹締結40周年記念式典に訪台しました。